昭和五十四年八月二十七日 朝の御理解
御理解第八十五節
「女の身上月役妊娠悪疽に腹痛まず腹帯をせずして産前身軽く
隣知らずの安産産後よかり物(モタレ物)団子汁をせず 生まれた子に五香要らずの母の乳をすぐ飲ませ頭痛血の道
虫気なし不浄毒断無し平日の通り」
私はこの御理解を頂くたんびんに、大変難しい御理解だなあ と
思うんですけど、合楽の場合には こういうむつかしい御理解の内容と同じような信心に皆さんが入っていかれる、という事がすばらしい、と思うんです。成程、宗教以前の宗教と云われる、
「これよりは日柄方位を忌まず教えの昔に帰れ」という み教えがやっぱり それに匹敵するような御理解だと思うですね。
もうどんなに考えても少し まあ常識的に考えたら、もう無茶なお話のようですけれども、実をいうたら そういう生き方の上におかげがあるのではなく、そういう生き方の上に力を受ける、徳を受ける、という事になるんです。
そこで私はまあ そういう信心によって、なら無事安産のおかげを頂く、というだけではなくて、その 生まれたその子供が いよいよお役に立つ人間 氏子、いうなら成長のおかげを頂く、という
おかげを頂かなければいけない、
ただ 無事安産のおかげを頂いたと、いうだけではなくて、それが世のお役にも たたしてもらおう、
神様の御用にでも立たしてもらおう、ね、それが本当にその一家の にもなるような、まあ いうなら親孝行の子にも育つようにというおかげが それにまた次に伴わなければ、ただ無事安産のおかげを頂いた、でなかったら あまりにもです、こういう大変な修業に取り組んだ甲斐が無い、値打ちがない、ね。
もう大変な事なんです、けれどもその大変な、いうならば信心をです、合楽では皆さんがなさっておられる、という事です、ね。
第一此処で皆さんにも申しますように、例えば薬は毒だと、ね、
というような表現で申します。
だからその薬を飲んぢゃならん、医者にかかってはならんと いう事ぢゃないけれども、そういう時には、いよいよ真剣にいうならば毒が変じて薬になりますように、というような祈りをもって頂けよと いうふうに此処では教えるわけです。
ですからその信心が段々出けてまいりますと、もう医者もいらない薬もいらない、もう全然、そういう まあそれこそ医者、薬、と云わんでよいほどしに、おかげを受ける。
ま、合楽で十年も信心が続けておったら第一薬箱がなくなってしまうと、ね、そういう例えば、まあ いうならば離れ技的な信心をです、それもね、いうなら実をもって、と、その道理が説かれる、と云う事です。
と云う事は実証をもって その教えが説かれるという事です。
私がまず第一の実験者であり、私の家族がまず実験実証者である。それで私の実験、私の体験を通して なら教祖のこの み教えを説かせて頂く、ね、というて その、何と申しますかね、そこにいろんな働きが おこってまいります、ね、
それから、と云うて医者にかかっちゃならん とか薬飲んぢゃならん、ぢゃない、昨日、一作昨日でしたでしょうか、
保健所からお医者さんが沢山見えられまして、大きなあのバスの中に医療機械が全部、こう造ってあってですね、中でレントゲンをかからなけりゃいけない、先日から末永先生が病院に入院しておる時分でしたけれども、あちらの子供達の検診を云うて来ましたから行きました、ところが、どうもあの二番目の息子がその、胸に異常がある、というのでお宅の係はりあいの家族の方達が全部一辺診察に来てくれ、という事であった、それで此処の近所の病院に行きましたところが あの人達はやっぱり仕事がなかもんぢゃけん なんばってん このくらいの事は放ったらけて ようなりますよ、ち云われた、それで行かんなおったんです。
そしたら再々天のつけ 火のつけ かかってまいりましたから、あの、ま、行くといいよったら、あんまり来んもんだから、やっぱ
金光様は医者を仇のごと思うちゃっとぢゃないやろか、と 私は思ったんですけどね、そちらの方へ出張していくから、という事でした、そいで家の子供たちは皆、その何十人の者が、ま検診を受けたわけです、ところが私だけが出らんなおったら ここの世帯主も、やっぱり見らにゃいかん、ち、ね、
うんにゃ私は、ちは 云わんとです。 それはもう ああそうですか、それは御苦労様でした、と云うて初めて私はレントゲンというものを取ってもらいましたけれども、結果はどういう事になるか、わかりませんけれども、ね。
その、こうこうでイヤ、という事ぢゃないです。
我、ぢゃないです、ね、そこに そういう働きがおこってきたら、それに ハイ、と それこそそれは霊柩車であっても私は乗らん、というわけには いかんでしょうもん、ね。
やっぱりそれ すんなりと乗せて頂くのが信心でございます。
けれどもね この信心の稽古の険しさ、厳しさ、というものを例えば私がこの八五節に特に感じるんですけれども、例えば先月から、佐田さんなんか もう医者が見たらもう、びっくり仰天するような身体の状態であった。ね、
それこそ弟さんが お医者さんでございますから もうその、あんまり二人で行かれてから奥さんが呼ばれなさった。
そいで もうあなた方主人な こういう、主人には直接云われん、あんまり ひどい状態だから、だからその、奥さんに代わりに出てこい、という事を云った、それで あなた方の御主人の病気の状態は、こうこうですよ、ち云うたばってん、それが ほけん事して、ああそうですか、というてただ聞いとるもんぢゃけん、普通なら、顔色位、変わる、もう そうですか、どうぞよろしうと いうとぢゃばってん、絶対 よろしうも云わなきゃ ああそうですかと云うて帰ってくるもんぢゃんけん 腹ん立っといなさいますたい、
お医者さんが、馬鹿ぢゃなかやろか、ち、
そいでもう 行くたんびにもう えらあい冷たい仕打ちを受けられた様でしたけれども、まあ最後に兎に角、あの 手術をしなければいけないというのが まあ 放任しとる間におかげを頂いて そのまあ手術をせんですむような、何か大きな固まりが溶けて流れておった、というように、だから フシギフシギとお医者さんが云われるようなおかげを受けて、なら、今日 もう健全という事ぢゃないけれども、そういう心の状態で信心に向かうておられた。
その病気を通して、ね、
日田から参って見える桑野さんなんかでも そうです、
ま、大変な病気らしいですけども、ね、合楽に足を向けられたが最後、もうそれこそ いちいち御神意をお伺いしながら、ね、それこそ神様一途にすがっておられるという事は、この八十五節を もう身をもって実験して居られるとです。
これはもう この、お産の上のこの事柄以上の、これはもう自分の命にかかわるほどしの事を、神様へまかせきっての御信心が出来ておられるのです。
ですから、そういうすばらしい、なら 信心をです、もう又とそういう体験をする事はないだろう、というような事を体験されるわけですけれども、そういう体験をして おかげで健康になりました、だけでいうのは おかげで安産のおかげを頂きました、というだけでしょうが ね、
その、いうなら大変な修業さして頂いとるうちに こういう事も、わかりました。こんな事もわかりました。
その わからせて頂くそれが、ま、お産でいうなら胎教 ともなって素晴らしい いうならば子供が出産の、安産だけではなくてその子供が、将来までもおかげに つながっていくようなおかげを受けなきゃいけんです、ね。
ですから、そういう素晴らしい修業をさして頂いて、なら、全快なら全快、安産なら安産、というおかげを頂いたそのあとが、です。あそこを 通らして頂いたおかげで、あの時に こういう事もわかりました、こういう力もあの時に受けたんだろう と思います。
というような おかげを頂かなければ私は こげな馬鹿らしい事はなか、と、ね、もう人の真似の出来んような修業をやってのけた。その後にはおかげを頂いた だけではなくて力を受けた、徳を受けた、というものでなからなければならん、という事です、ね、
私は大変むつかしいんですけれども、その、一事が万事に合楽ではいうならば 神様にこの身も心も任せる、という生き方を通らせて頂いて、ね 成行をいよいよ尊ばしてもらう、成行を いよいよ、大切にさして頂く、という生き方の中に そういう、いうなら自ずと、ね、こういう時に医者と云わんでも、こういう時に薬を頂かんでもすむような信心が出けておって、そこからおかげの世界、いや続いて お徳の世界に入って行けれる、そういう いうなら、まあ登竜門、とでも申しましょうかね、
こういう信心が出けた むこうです、ままよ、ままよとは死んでもままよ、の事ぞ、と こうおっしゃる。
だから そういう信心にです、ね、充分のお徳を受けようと思えばね、そういう信心をさしてもらわなきゃならない、
そういう 腹を決める、度胸をすえる、というだけでなくて、その度胸をすえた そこから育ってくる いうなら信心がです、ね、
全快のおかげを頂きました、安産のおかげを頂きました、その頂いた後の信心がすばらしい、いうならば どういう場合であっても驚かんですむ力が、どういう真っ暗な事がおこっても、それこそ心の光がシャン、として輝いておるような 心の、信心の内容というものが出けてくる、ね、
そういう すばらしい信心をです 合楽ではね、容易う説いてある所にね、合楽理念のすばらしさがあると思うです、ね、
なら 桑野さん何か 信心の全然皆無の方であったです。
それが此処に御縁を頂かれた途端から 合楽でいう一番むつかしい信心に日々取り組んでおられる、という事です。ね、
だから取り組んでおる事に喜びが湧く、取り組んでおる事に その有難いものが頂けれるような稽古を 本気で、その間にね 身につけておかなければ、折角のその修業がね、
ただおかげを頂きましただけで終わるような事では、
勿体ないという気が致します、 八十五節
これはもう今どき 金光教の信心、信者の中にそういう事をいう所はないでしょう、ね、こういうような御理解を、
本当に説けるところはないと思うですね、
そりゃあもう 医者の云う通りにする、というような生き方しか、ありませんけれども、これは例えばお産だけの事ではありません、ね、もう全てのナンギを感じた時に その難儀を いうなら神様にお任せする、
昨日の御理解ぢゃないけれども ただ 天に任せる、神様に任せるというだけではなくて、地にすがっての信心が出来るところから
いよいよ力が約束される、お徳を受ける、いうならば この御理解は、登竜門、といったような感じの御理解ですね。
「どうぞ」